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人を笑わせるって、本当にすごいことです

お笑いに関しては、かなり早い時期から興味を持っていたそうですね。

石井  僕のいちばん古い記憶は、家族全員がお茶の間のテレビで三木のり平さんと八波むと志さんのコントを見ていて、みんながゲラゲラと腹を抱えて笑っているというものです。「お富与三郎」を題材にしたコントで、あとで調べてみると、僕が5歳のころに放送されていたことがわかりました。
 よくある日常風景ではありますが、僕にとってそれは、特別な体験でした。テレビを見ている人は、コントを演じている芸人を「バカだな」とか、「変なヤツだな」と見下して笑っていると思うんですが、僕はそんな風に人を笑わせることのできる芸の力を素直に「すごいな」と感じて、尊敬の念を抱いたんです。きっと、お笑い芸人になった多くの人は、僕と同じ体験をしているはずです。
 ただ、小学生、中学生になると、自分がお笑い芸人になるのは無理だとすぐに悟りました。出身が大阪ですから、僕よりおもしろいヤツがクラスに何人もいましたからね。

 その一方、当時、芸人ではないけれど、青島幸男さんのようにテレビの放送作家として活動し、後に自ら演者として人気者になった方がいらっしゃいましたから、裏方になるのも悪くはないな、なんて密かに思っていました。
 ですから学校の勉強は、真面目にやろうという気はいっさいありませんでした。いちおう中学生になったとき、家の近所にあった名門の学習塾に入れられたんだけど、サボッて難波あたりの繁華街で遊び歩く毎日で。さすがにそれが親にバレまして、3年生の1年間は塾に泊まり込みで勉強することを命じられましたが、集中して勉強したのはその1年間だけ。鹿児島ラ・サール(ラ・サール高等学校)に入学した後もろくに勉強しませんでしたから、進学できたのは青島幸男さんの出身校でもある早稲田大学だけでした。

いろいろな可能性を試していた学生時代

早稲田大学に入学した石井さんは、早くも1年生のときに放送作家としてのキャリアをスタートさせますね?

石井  いや、キャリアと呼べるようなものではないですけどね。大学ではミュージカル研究会に入ったんですが、ちょうどその年に先輩たちがごっそり抜けたこともあって、1年生の僕でも作・演出をまかされるチャンスが転がり込んできたんです。その公演を見た先輩が、僕に放送作家の仕事を紹介してくれたわけです。
 テレビ朝日の『チビラサンデー』という歌謡バラエティ番組でコントの台本を書いたのが最初でしたが、そのうち、ミュージカル研究会の活動も忙しくなるし、試しに受けた劇団テアトル・エコー養成所の一期生のオーディションに通っちゃったりしているうち、放送作家の仕事はフェイドアウトしていきました。

裏方ではなく、演者として活躍したいという欲が出てきたわけですね?

石井  上京して間もないころだったし、いろんなことを試してみたいという気持ちが強かったんですね。
 そんな中、テアトル・エコー養成所の二期生にリーダー(渡辺正行)と小宮(孝泰)が入ってきた。2人は三宅裕司さんや立川志の輔さんを輩出した明治大学の落研出身で、遊びでコントを披露したりしていて、一緒に活動したらおもしろいんじゃないかと思ったんです。その後、3人組になって学園祭をまわっているうち、コント太平洋さんという先輩芸人に「ストリップ劇場で演らないか」と誘われることになりました。
 その誘いを断って、テアトル・エコーで俳優修行を続けるという道も、なかったわけではありません。でも、本舞台に出演するまで10年かかると言われていましたし、その間、大道具などの裏方としての下働きが続くんです。ストリップ劇場とはいえ、定期的に給料がもらえて、プロの芸人としてデビューできるという誘いは、とても魅力的でした。

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