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アッという間の芸人デビュー。
天狗になる暇もなかった

ストリップ劇場出身の芸人さんというと、渥美清さんや萩本欽一さん、ビートたけしさんなどの名前が浮かびますが、コント赤信号もその系譜につらなる芸人さんなんですね?

石井  昔のストリップ劇場は単に女性の裸を見せる場所ではなく、キチンとしたショー形式になっていて、その時代に活動していた方々と僕らを並べて評価するのはむずかしいでしょう。
 当時のストリップ劇場はすでに全盛期を過ぎて、エロの部分がエスカレートしていた時代で、まな板ショーなんかをやっていました。幕間のコントは箸休めというか、お客の興奮を鎮めて回転させるような存在でしたから、芸の質を問われるような舞台ではありませんでした。
 とはいえ、僕らが立っていた渋谷の道頓堀劇場には、杉兵助という専属のコメディアンがいて、お笑いをやる土壌が少しは残っていました。それから、渋谷という土地柄、若い層のお客が多かったので、僕らがプロレスの技かけでドタバタ動いたりすれば、少しは受けをとることもできたんです。
 そんなある日、師匠の杉兵助が澤田隆治先生という、お笑い界の大プロデューサーに「ウチの若い者を見にきてくれ」と声をかけてくれたことをきっかけにテレビに出るようになり、イッキに世間に名前が知られるようになっていきました。

 ただ、最初のころは自分たちがすぐに売れっ子になるなんて、まったく考えてはいませんでした。実際、「暴走族コント」の次に作った「ササニシキコント」は、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)という番組で披露したときはドッカンドッカン受けるんだけど、ストリップ劇場ではまったく受けませんでしたから。天狗になる暇がない(笑)。
 コント赤信号があんなに売れたのは、石井光三社長との出会いが大きいと思います。実際、社長がマネージメントをしてくれるようになってからは、トントン拍子で仕事が増えていきましたからね。そもそも芸人になるようなタイプではない、僕のような人間がうまくこの世界に潜り込めたのは、杉兵助師匠や澤田先生、石井社長といった人たちがいたからで、「運がよかった」、そのひとことに尽きると思います。

名前が売れても、「ライブの脚力」が必要だった

さて、お笑い芸人としてブレイクした石井さんがその後、演出家、脚本家として演劇活動をはじめるきっかけは、何だったのでしょう?

石井  大学ではミュージカル研究会をやっていましたし、劇団テアトル・エコーの研究生でもありましたから、演劇にはずっと興味を持ち続けていました。
 コント赤信号のメンバーもそれは同じで、テレビにデビューした4年後の1984年には、石井社長の許しをようやく得て「赤信号劇団」を旗揚げしていますし、石井社長がレオナルド熊さんと作った劇団七曜日の公演にも関わったりしていました。
 中でも小宮は、演劇活動に熱心で、川村毅さんの第三エロチカの公演に客演したのを皮切りにいろいろな芝居に出るようになり、そこで知り合った演劇人の友だちを僕に紹介してくれました。
 一方、テレビの世界では漫才ブームが一段落してネタ番組が少なくなり、僕らがコントを演じる機会がほとんどなくなっていました。そんな状況でしたから、演劇活動を始めるようになったのは自然の流れだったと思います。
 ところが、最初のころは演劇雑誌に「今度の公演の取材をしてください」と申し込んでも、ぜんぜん相手にしてくれませんでした。「タレントが片手間でやっているんでしょ」とか、「有名人だから黙っててもお客が入るでしょ」と思われてしまったのかもしれません。
 結局、僕が本気で演劇活動に取り組んでいることを認めてもらうには、続けていくしかないんだと腹を決めるしかありませんでした。他の劇団やプロデューサーからお呼びがかかるようになったり、何度も見にきてくれるお客さんが集まるようになるには、テレビで売れる以上の時間がかかってしまいました。

なぜそこまで演劇活動に本気に取り組んだのでしょう?

石井  演劇はライブですから、目の前のお客さんをリアルタイムで楽しませなければいけません。そこでの脚力が衰えてしまうと、テレビ番組でもコメントひとつ、言えなくなってしまいます。つまり、どんなお客さんも相手にできるという自信がすべての仕事に影響するんです。
 脚本を書いたり、演出したりするのも同じことで、「ラサール石井はいい作品を作ることができる」と人に認めてもらえることを目標にこれまで頑張ってきました。

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