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2014年02月17日配信

『歓待』で日本国内のみならず、世界的な評価を集めた深田晃司監督。『地獄でなぜ悪い』の二階堂ふみを主演に迎えた『ほとりの朔子』(全国公開中)も、フランス・ナント三大陸映画祭にて『ウンタマギルー』(高嶺剛監督/1990)、『ワンダフルライフ』(是枝裕和監督/1998)、『サウダーヂ』(富田克也監督/2011)に続いて日本映画4作目の「金の気球賞(グランプリ)」に輝いた。

「『サウダーヂ』が獲るまでは、少し間が空いていたんですよね。それがこのわずかな期間で日本映画が2度もグランプリを受賞した。日本への関心が強まっているのかどうかは、僕には分かりませんが、しかし日本とフランスのコミュニケーションの違いについては、興味を持たれているのではないでしょうか。恋人同士の距離感ひとつをとって見ても、『どういうものなのか』と思っているはず。日本人は、街中で手をつながないという人も決して少なくはないけど、あちらはそうではないですし」



今回の『ほとりの朔子』も、「男女関係」を主軸に人と人の距離感を描いている。大学受験に失敗した女の子・朔子が、海辺の町で叔母とともに2週間の“夏休み”をとる。そこで、叔母をめぐって、かつて関係があったホテル支配人、追いかけてきた大学教授らが交錯していく。大人たちの色恋沙汰を前に、苛立ちなのか、呆れなのか、深追いせずにそれを眺める朔子。しかし彼女自身にも、ひとりの少年の存在が日常に変化をもたらしていく。

「朔子の独特のキャラクターは、二階堂ふみさんのイメージを連想ゲームのように膨らませて、生まれました。もともと二階堂さんで1本映画を作りたくて。童顔でありながらも、一方で大人びていて、クールで、多面的な個性がひとつの体に入っている。“夏の避暑地”という物語の中で、二階堂さんのそういう部分を引きだしたかった」

鶴田真由演じる叔母は、知的で落ち着きがありながら、しかし男性関係は決しておとなしくはない。そして朔子は、純潔性を保っているような存在である。叔母を追って避暑地にやってくる不倫関係の大学教授が、「マグダラのマリア」について講義をしている場面が出てくるが、「娼婦であり、聖女でもある」と語られるマリアは、まるで叔母と朔子のふたりのことをあらわしているようにも思える。

「脚本を作る作業は点を追っていくもので、その配置をうまくすれば、お客さんが自分で点と点をつないで星座を作ってくれる。なので、この映画の『マグダラのマリア』に関しては、そういう想像を膨らますことができる要素かもしれません。ただ、その発想はなかったのでおもしろいですね。『男が求めているものは娼婦か聖女か』というような話もありますが、それは男にとって重い言葉として受け止めなければならない。特に映画はやはり男性社会で、そればかり描かれてきた。今回の劇中でも、大学教授が、自分に気を遣わない叔母に対して『(俺の気持ちを)くみとれよ』と言うシーンがありますが、まさにそれは男の傲慢さ。フェミニズムはまだここ100年くらいのものであって、歴史的な背景はまだ男性社会が流れている。僕自身、日活ロマンポルノが大好きなのですが、しかしその中でファム・ファタールのように強く描かれる女性にひきつけられます。しかしそういう女性像がどこか類型の中で消費されてしまっている。そろそろ、その反省を日本映画はすべきじゃないかと思います」

大人たちの恋愛模様を、いびつなものを前にしたような目で見つめる朔子。朔子の視点、大人との距離感。それはこの映画と観客の関係性に近いものかもしれない。決して相容れない、一定の距離を抱かせる。画もとてもクールで、感情的になりそうな場面でも、エモーショナルには振り切れない。

「朔子に関しては、観ている人に共感やカタルシスを抱いてもらうようなキャラクターではないと思います。『ほとりの朔子』は観客にとって明らかに“他者”であって欲しんですい。映画とは、自分と違う価値観、世界を知れるもの。共通言語の中で観客と時間を過ごすのが、現在の日本映画の形になっていますが、自分の映画はそうならないようにしています。僕自身、人は理解できないという考えが、常に映画製作のスタート地点。だからこそ、観た人はこの朔子とぶつかり合って欲しい」



映画『ほとりの朔子』は全国公開中
◇公式HPはこちら


取材/文・写真 田辺ユウキ(映画評論家)


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田辺 ユウキ
田辺 ユウキ
1979年生まれ。関西を拠点に映画評論家としてレビューやインタビューの執筆ほか、また映画と音楽のプロモーターも務める。2014年に大阪市映像事業「CO2」プロデューサー就任。「大森靖子映画祭」「いずこねこ 最後の猫トーク」などイベント企画も行う。