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2010年09月17日 配信

 水戸の浪士が起した大老・井伊直弼の暗殺事件。いわゆる桜田門外の変から150年目となる。なぜ事件が起こったのか?事件を起した後、浪士たちが辿ることになる数奇な運命を描いた『桜田門外ノ変』(10月16日公開)。これまで「男たちの大和/YAMATO」「人間の証明」「新幹線大爆破」など話題作を数々生み出してきた佐藤純彌監督(77)が初めて時代劇を撮った。


 ペリー来航以来、外圧に負けて鎖国の門戸を開こうとする井伊直弼など徳川幕府側と、それに異を唱え尊皇攘夷論を押し出していた水戸藩主・徳川斉昭が対立していた。井伊が大老に就任して斉昭の一派は失脚する。そこで国を憂う水戸の有志が立ち上がった。そうして1860年、桜田門外の変が起こる。ペリー来航は7年前の1854年、大政奉還し明治となるのは7年後のこと。



(佐藤純彌監督インタビュー)
井伊直弼は、開国の断を下すという役割を進んで引き受けた。歴史の先を見通せた人だと思います。一方、水戸藩も開国には反対ではなかったと思うんです。今の状態では開国してはいけないというだけで。開国するとインフレが起こり物価が上がる。また周囲の国から攻められる可能性が出てくる。まず軍備など国内を整えることが必要だと考えていた。徳川幕府の末期、一部のインテリは蘭学を通じて世界の知識や世界情勢には通じていた。開国は時間の問題だっていうのは感じていたんだろうと思います。

私にとって初めての時代劇です。最初話が来たときは断ったんです。桜田門外の変は、政治テロです。テロを賛美することになる。だから、事件の描写を前にもってきて、幕府と事件に参加した人物の運命を追ってゆくという話にしたいって言ったら、それでいいよってことになりました。断るつもりで言ったのに(笑)。

桜田門外の変がなぜ起こらざるを得なかったのか、時代背景の歴史の時系列と、水戸藩士・関 鉄之助の時系列とを交互に描くような構成にしました。わかりやすくエンターテイメントにする、時代劇をやってこなかったからできたのかもしれません。



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大学を出て東映に入って、一時、仁侠映画が流行りましたが、これまで仁侠映画は一本も撮ったことはありません。暴力で物事を解決することを肯定することがどうしても出来なかったんです。12歳での終戦体験が影響しているんでしょう。戦争が終わって次ぎの日から、暴力はイカンって話になった。監督になってからも暴力を正当化する映画は撮らないって思ってきました。

映画冒頭の桜田門外での暗殺シーンは約17分。実際にはタバコ2、3ぷくって言われているから、おそらく5分とか10分なんでしょう。このシーンは一番重要なシーン、どうリアリティを持たせるか考えました。人を斬ってもなにも出ない時代劇もあるけど、それだけはやめようと。血のりが多けりゃ後で消せばいいやって(笑)。撮影は2月、日の出から日が差すまでの1時間と夕方日没後の1時間、昼間は遊んでました。このシーンの撮影には10日間位かかってます。

時代劇の面白さと、ややこしさを実感しました。大衆のエキストラは朝3時から準備したり、人を一人増やすってだけで大騒ぎ。それと所作の動きがゆったりしていて、もうっちょときびきびいかないのかなって(笑)。部屋に入ってくるだけでお辞儀して…。その積み重ねが時代劇なんでしょうけど。



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大沢たかおさんが演じた鉄之介は、水戸でも無名なんですよね。茨城県の知名度は全国で45位らしいんですよ(笑)。県の知名度上げたいってことでこの映画をつくることになりました。水戸に映画化支援の会が出来て、水戸の千波湖のそばにオープンセットを立ててくれました。

現代社会の悪を描こうとすると複雑で描ききれないとか、今は現代劇が撮りにくくなっているっていうのはあると思います。社会派の映画が減っている。映画っていうのはお金を出す人がいないとつくれない。お金を出す人達がそういうものに触りたがらないんですよね。

戦争が終わって、戦後何年って言い方をするけど、桜田門外も、桜田門外後何年、そんな言い方ができる大事件だったんじゃないか、そう思います。事件をたった150年と思うか、150年も前の話と思うか、どう感じるかはそれぞれだけど、僕はたった150年って気になってきましたね。まあ、僕が年をとってきたからかもしれないけど(笑)。


『桜田門外ノ変』は10月16日(土)より公開される。
映画情報はこちら


9月3日 大阪市内
取材/写真・文 羽渕比呂司

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羽渕 比呂司
羽渕 比呂司
 大阪ガス行動観察研究所社員